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「お金とは何か?」構造主義で暴き出す資本主義経済と欲望のサイクル

 

「お金とは何か?」:構造主義思想で哲学し暴き出す、貨幣によって駆動する資本主義経済と欲望のサイクル
「お金とは何か?」:構造主義思想で哲学し暴き出す、貨幣によって駆動する資本主義経済と欲望のサイクル

その昔、1980年代頃、バブル期真っ只中といった具合の時代に、哲学書がベストセラーになる″ニューアカブーム″というものがありました。
それまでの″構造主義″とカテゴライズされる思想を打ち立てた西洋の知の巨人達--レヴィ・ストロース・ソシュール、ジャック・デリダ、ジャック・ラカン、ロラン・バルト、ミッシェル・フーコー、フェリックス・ガタリ、ジル・ドゥルーズ--などの知恵の総まとめというようなものとして浅田彰の著した書籍『構造と力』などは、それはもう売れに売れて、自称インテリ、自称哲学者、自称社会派、自称知識人などは、クラフト紙に包んだフランスパンの代わりに『構造と力』を小脇に抱えて大学のキャンパスを闊歩していたといいます。1その少し前では、フランスで五月革命などが起き、日本にもそれが波及して学生運動として大学が非常に混沌とした具合になったのはバブル経験者の方はご存知だろうと思います。

ですが、今ではテレビなどで構造主義など全く聞かなくなりました。わたしは、テレビで「構造主義」という言葉を聞いたのは人生で一度もない…訳ではない気がしますが(「100分で名著」でレヴィ・ストロースの『野生の思考』やってたので)、「今これが熱い!構造主義特集」みたいなのは観たことない。それもそのはずで、構造主義はその後いろいろあってポスト構造主義とか脱構築とかに進んでいき、例えればモダンがポストモダンになったりして哲学・現代思想界も変化してきました。言ってしまえば歴史とデジタルの潮流の中、忘れられる…というよりか時代の熱狂に左右されず、落ち着きをもって見れるようになってきました。ちなみに現代思想の最先端は、舟木亨氏の『現代思想史入門』的には、ダナ・ハラウェイのサイボーギニズムなどに類するものがあるようです。またカンタン・メイヤスー、グレアム・ハーマン、マルクス・ガブリエルなどが代表的な新実在論(思弁的実在論、オブジェクト指向存在論:OOO{object-oriented ontology}など)が育ってきていますが、それはまた別の話なのであとにとっておくことにしましょう。

そんな構造主義ですがこれは、人間社会における様々な事象が、近代史の中で確立された「理性的な人間」というモデルに準拠して賢く合理的に論理的な思考で主体に基づき選択され現出するという人間存在を高い位置に置いた考えかたとは批判的な位置にあり、「人間」は自由意志はない―――あるいは限りなく弱く、社会的ある種の思想・制度・様式などの規定された構造によって日常的習慣・行動・思考が現出するという人間存在を低い位置に置いた考え方を前提に、それらの支配的社会構造がどのような原理で駆動しているのか、またどのような系譜で作出されたのかについてを問う態度・思想・哲学のことを指します。このような視点・文脈で、言語や婚姻の制度、社会制度やジェンダーなどが西洋を中心とした哲学者・思想家・精神科医・文化人類学者・記号学者などによって論じられました。

このエッセイでは、主に浅田彰の『構造と力』(勁草書房、1983)をリファレンスとして構造主義の概観を学びつつ、現代の駆動系である資本主義のコア要素として蠢いている「貨幣」について、構造主義視点を用いてその存在の輪郭を描こうという目的で書いたものになります。また資本主義を超克した社会を探るための序説でもあります。ただし、構造主義自体の視点というフレームワークを得ること記事として読むこともできると思います。

​お金とは、なにか。

お金とはなんなのかという問いが、ここ数年の間で今世界各地で繰り広げられてきたことだと思います。それはもちろんブロックチェーン、および暗号通貨の登場という衝撃によってもたらされたものです。そのような議論をするにいたった彼らはまず一度は、以下のようなことを思うのではないでしょうか。つまり、

  • お金とはなんなのだろうか。
  • 将来的に資産の保管場所としてビットコインなどの暗号通貨に変わっていくのだろうか。
  • だとしたら今ある現金(フィアット(不換紙幣))は死ぬのだろうか。

などに類する問いです。そしてこれらの問いは事あるごとに周回し、最初の問い”お金とはなにか”に立ち戻ってくることでしょう。このお金・貨幣についての考察は、暗号通貨においての考察という領域にとってもっとも基本的なことだと思います。その”お金自体への疑問”を抱くという経験は、暗号通貨を知った人たちの多くが供述しその体験を共有しています。ある人はお金や人類の歴史についての本を読み、ある人は経済学にその答えを求めたりしたことでしょう。

多くの人は、お金がたくさんあれば嬉しいと思っています。資本主義社会において、それは同然の感情だと言えるでしょう。しかし、そうしたお金についての本のなかには、次のような思想も中には存在します。つまり″蓄財する″という行為がしかしそもそもの話として悪であるという思想です。そうした思想は、主にドイツ圏の知識人の見解に見つけることができます。

では、お金を貯めるということはいけないことなのでしょうか。そのような指摘をなされる”お金”とはなんなのでしょうか。このような錯綜した意見のある”貨幣”の行く末はどうなるんでしょうか。ここでは、「お金とはなにか」として、以下のような順で考察したいと思います。

現段階ではひとまず①を投稿したいと思います。
②、③は追々考察したいと思います。

 

  1. 老化貨幣についての考察の準備としての「構造主義的見地から見た現行貨幣の復習」と
  2. 準備を踏まえた上での、「自然秩序的老化貨幣モデルと地域通貨について」の考察
  3. そして法定通貨(フィアット)は死ぬか死なないかの検証

 

これらを順に考えていき、ひいては「お金について考える」という、哲学の誘いの役割になれればと思っています。

はじめに:将来からの価値の輸入

構造主義に入る前に、問題提起としてドイツの児童文学作家であるエンデ―――ミヒャエル・エンデ―――による社会的視点を導入したいと思います。彼の筆による子ども向けのやさしい物語のなかには、現代社会とそのお金への鋭い問題提議が含まれているということが知られています。

エンデは”利”を非常に問題視していました。またエンデの注視していた、ルドルフ・シュタイナー、およびシルビオ・ゲゼルも同様に、お金への問題意識を有していました。また″蓄財する″という行為が悪であるという思想もありました。つまり、金(かね)の死蔵という問題です。その問題は、ひいては、エンデの指摘していた″利″によるカネの指数関数的増殖・利を使いこなすことのできる数%の人たちへの富の集中、そして資本主義的破壊的”将来からの価値の輸入”と形容される、お金・マネーによる暴食的パンデミックみたいなもの、そしてそれらの行く末の地球レベルでの侵害問題まで敷衍します。

「われわれは将来を”輸入”して、いまを生きています。そのために環境を消費し、資源を食いつぶしているのです。」2

それら利の弊害への打開策として、ドイツの知識人、シルビオ・ゲゼルやルドルフ・シュタイナーなどの提言による保持しているとその価値が低下していく「老化貨幣(エマージング・マネー)」なるものがあります。老化貨幣というのは、”お金とはなにか”という基本的な問いに対してひとつ検証のしがいがあるのではないかと思います。(この話題は次回にまわします。)

 

構造主義的見地から見た現行貨幣の復習:脱コード社会

これまでの社会を3つの構造に区分する

 

まず老化貨幣について考える前に、現代社会の構成の成り立ちを構造主義的な見地から振り返ってみたいと思います。

 

構造主義のおさらい

その前に、冒頭でも解説しましたが構造主義の概観をご存知ない方に簡単に解説をはさみたいと思います。
まず引用によると、

構造主義(こうぞうしゅぎ、仏: structuralisme)とは、狭義には1960年代に登場して発展していった20世紀の現代思想のひとつである。広義には、現代思想から拡張されて、あらゆる現象に対して、その現象に潜在する構造を抽出し、その構造によって現象を理解し、場合によっては制御するための方法論を指す語である。

構造主義という名称から、イデオロギーの一種と誤解されがちであるが、今日では、方法論として普及・定着している。あらゆるイデオロギーを相対化するという点でメタイデオロギーとも言える。数学、言語学、生物学、精神分析学、文化人類学、社会学などの学問分野のみならず、文芸批評でも構造主義が応用されている。

一般的には、研究対象を構成要素に分解して、その要素間の関係を整理統合することでその対象を理解しようとする点に特徴がある。例えば、言語を研究する際、構造主義では特定の言語、例えば日本語だけに注目するのではなく、英語、フランス語など他言語との共通点を探り出していくメタ的なアプローチをとり、さらに、数学、社会学、心理学、人類学など他の対象との構造の共通性、非共通性などを論じる。

https://goo.gl/ivtT5D

とあります。
これは簡単にいうと、

  • 哲学的な、”真理の探求”という、どこかに存在する”モノ”を探すというアプローチをする態度に対して、
  • 構造主義では、その真理とされているものがどのようにして形成されたか、”真理というモノ”の系譜はいかなる構造となっているかを探求する態度である

という理解でいいと思います。いいかえれば、いかにして常識が形成されたか。見えない”当たり前”がどのように生活に「構造」として存在するか、を探求するアプローチです。

 

社会を構造的に区分する

ここでは構造主義を資本経済的な観点から観察するということは前置きしました。その文脈から構造主義的視点で結論をまず書いてしまおうと思います。資本経済の構造主義的解剖とでもいうべき作業になります。

その結論ですが、端的にいうとまずカミサマ「イエス」は、永遠不滅で石ころをパンにしたり、病気を治したりいろいろと万能な絶対的な存在でした。しかしながらニーチェなどの哲学ボーイによって殺されてしまったので今はなりを潜めています。変わってその座についたのが、今みんなのお財布に意気揚々と入ってるお金だというんですね。考えてみると、永遠不滅(かどうかはさておき、口座に眠らせておくだけならカビたりしない)で石ころをパンにしたり、病気を治したりいろいろと万能ですね。

これを踏まえ、人間史というものを構造主義とか現代思想的に解釈すると、大きく3つの流れ、つまり

  1. コード化
  2. 超コード化
  3. 脱コード化

に区分され、その中の「超コード化」もしくは「超コード化社会」が、カミサマ万歳・教会万歳の時のことをさしたりするとされてます。この中のコードというのは、かんたんにいって”社会の仕組み”と読んで差し支えないと思います。では、これらコードがなぜ存在するのかという点に疑問をもってみたいと思います。これは簡単にいってしまうと、”方向付けのデザインの為”だといえます。これは『構造と力』3に依拠しており、以降も同書を多く引用しているのですが、つまり

有機体の生の世界とのズレ4を孕んでしまった本能は、肥大した脳のリゾーム的な迷路の中でから回りし、情報的過剰―――方向=意味(サンス)の過剰を作り出す。これは極めて危険な状態である。(中略)その上で、今度は象徴的(サンボリック)次元において、言語的メモリーを刻みつけることが急務となるのである。「いかにして人間獣に記憶が植えつけられるか。いかにしてこの半ば鈍重な、半ば愚鈍な刹那的悟性に、この健忘の化身にいつまでも消え失せないような印象を刻みつけれるか。」ニーチェはこの問いに簡潔に答えている。烙きつけること、絶え間なく苦痛を与えることによって。これである。(中略)文化とは何よりもまずこのような垂直のちからの運動なのだ。5

引用が長くなってしまいました。次が重要です。

さて、文化が多少とも安定した構造として存在するためには、この垂直な力が社会の全表面に広がることを可能にする何らかのメカニズムが必要である。
このメカニズムがいかなる形態をとるかによって、いくつかの文化を区別することができるだろう。

としています。
前半の長くて難しい文章は、「哲学者が社会を観察すると、こんなふうに見えてるんだな」ぐらいでいいです。

 

コード・超コード・脱コード

前掲したコードの区分は、説明を加えると以下のようになります。

  • コード化:原始共同体
  • 超コード化:古代専制国家
  • 脱コード化:近代資本制

真ん中がキリスト的な社会と書きましたが、それぞれの区分は以下のようになっています。

まずコード化された社会、これはつまり「一方的な贈与と見えるものを円環の一契機としてとらえ返すことによって、拡大された相互性=互報性による解釈が可能になったこと、それを承(う)けたレヴィ=ストロースが贈与の円環を一般交換として定式化」6したような、原始的な構造社会をさします。いってみれば槍を持って火を囲んで踊っていたりしていた時代。ヤマタノオロチとか神武天皇とかより前でしょうか。歴史学者のジャレド・ダイアモンドや『サピエンス全史』のユヴァル・ノア・ハラリとかが見つめている時代です。

次、超コード化社会は、さきほども書いている通り”カミサマ的”な社会です。これはイエスだけというのではありません。王様的な存在も含まれます。古代専制国家というのがそのあたりを説明していますね。いわば、ひとりの王が臣下たちの上に君臨するという、ピラミッド型の構図です。「人間を部品とするこのピラミッドをマンフォードはメガマシーンと呼んだが、天に向かって聳え立つその姿が大地に張り付いた原始共同体とは異なる新たな段階を示していることは、誰の目にもあきらか」7として階層による支配構造が敷かれた社会を指します。イスラム教でも―――スンニー派とシーア派がいますが―――シーア派の王であり絶対者的な”イマーム”という存在があります。このイマームは、物質的,現存在8的な存在――つまり人――ですが、同時に神的な絶対者としてかつて存在していました。ですがある日そのイマームを次ぐ子どもが殺されたか神隠しにあったかで消えてしまった何百年か何千年か前のその日から、イマームは”お隠れ”していて今(2017)も、そのままお隠れになっているそうです。9

 

脱コード:現代

 

そして第三段階目が脱コード化社会。これは「近代資本制として、すべてを、就中(なかんずく)、脱コード化されてマルクスのいう二重の自由を身に帯びるにいたった労働力の流れを、商品として運動にひきずりこむことによって成立する社会なのである」と説明されます。貨幣が”急進的平等主義者(レヴェラー)”となって、すべてを量的な大小関係に還元し、自身はありとあらゆるものに化身して世界を自らの運動に巻き込んでいくという、情報的過剰―――方向=意味(サンス)の解決方法が採用された社会ということですね。

このサンスの解消というのは、コード化社会ではお祭りが該当しました。わっしょいわっしょいというあれです。それによってカオスエネルギー=過剰なサンスの発散がされていたといいます。

超コード化社会であるカミサマ時代では、サンスは上方に君臨するそのカミサマに注がれていました。
信仰深く生活していれば救済されるとしてです。そして近代資本制社会では、カミサマ万歳!とやっていたエネルギーをどこかしらに向けなくちゃいけないというので、未来あたりにすればいいでは?という世界です。

ここで疑問が出るかもしれません。
つまり「現代社会においてカミサマとは貨幣――お金のことではなかったのか?」という疑問です。

ここでの”お金”について答えると、脱コードされた社会においては資本とは永遠に達することのできないがゆえにそれを追い求めるという不可侵的な終結、――これで終わりだ、がない――対象へ到達しようという倒錯的手段として存在するということがあげられます。ここでの資本は、貨幣における交換手段・尺度:アカウント単位としての存在ではなく専ら神的貨幣としての存在として認識されます。それがあれば救済されるという類のものです。

また、この近代資本制においては、貨幣とは、はじめにEXCÈSがあったと書き表せられるような10、自己証明の完全証明は内的な円環に留まっている限り延々に証明しきれない構造に近似する(→自己言及のパラドックスというそうです。難しいですね…今知りました。)構造の無限のミルフィーユ的差延性をもつ幻惑的な一者として存在していたものから置き換わった存在であり、その近づけばどこまでも遠ざかっていくような差延の性質はそのまま引き継がれています。

ウロボロス
自分の尾を飲み込むウロボロスは円環のダイナミズムを象徴する

そこにおいて、脱コード社会とは、超コード化社会においての王に対する無限の負債であったものが主体に内面化され、自己に対する負債と化すという構図が生まれ、主体は自らに負ったこの負債を埋めるべく、際限なしに走り続けねばならない。言ってみればひとりひとりが「小さな植民地」となるのである11、というような構図があります。ここにおいて、対象への到達のために、あらゆるメディアにおいてその整流装置としての言説――努力すれば夢は叶うなど――が流布されます。そしてカミサマは汝らを救済されたまうと促しています。

これは一見怖い構造のようにも思えるかもしれませんが、一方で、そうしたダイナミズムがなければ各人は好き勝手いろいろなことをしてしまうアナーキーなことになってしまうので、困ることはたしかです。とはいえ問題がないわけではありません。これは個人的な考えですが、こうした亡霊性・背面性構造に嫌悪感をいだく人のための、開示・透明性・正面性構造があるというのが昨今巷で言われているような”多様性-Diversity-”のひとつにつながるのではないかと思ったりしています。

 

さて、そのような資本の健やかな成長のための労働性の投げ込み機能としての整流装置として、家族もその役目を全うしています。貨幣のダイナミズムに優良な過剰の解消を達成できる粒子を投げ込むために、国家イデオロギー(AIE)は「子どもをエディプス化された「独立」の主体として成形し、一般性・汎用性をもつ知的能力を賦与することを、主な機能とする」12とします。

近代資本制の貨幣は、超越的な位置に休らうことを知らない。静止した退蔵貨幣は資本としては死んでいるのであり、それが生命をもつためには、絶えず再投下され、価値増殖の運動を続けねばならないのである。13という性質をもっている。その説明のためにクラインの壺というのが図で示されます。14

クラインの壺

 

このモデルを使って説明すると、貨幣というものは、つねに運動し続けるダイナミズムを有していて、継続的なSalto mortale(生命がけの飛躍)15により生き続けるマグロ的・軽業師的な動作をするのだということで、底16から舞い上がりつつ細いところを通ってまた底へ還ってくるという循環がなされると説明されます。

そこで子どもたちは、「同じ顔をした定型的主体を作り出して流れ――その流れの中で、主体は自らのノッペラボウの顔に、「資本の流れの派生機能」として資本家と「労働の流れの派生機能」として労働者という仮面(ペルソナ)をつけることになる」17と、とこんなことを言われてしまう存在になるのですね。

 

座標的に見た貨幣への結論

以上を見るように、貨幣はやはり神的ななにかを帯びる存在だというのは、おおよそ当てはまるのではないかと思います。

これらの関係を座標的にみると、そのY軸のはるか上のほうにいたカミサマがニーチェその他によって引きずり降ろされ殺されたあと、その空白のままでは人間の過剰=サンスが危険であるというので代替として時間軸上X軸の遠くのほうに位置づけられたわけですね。

現代社会を『構造と力』に依拠して構造主義的に説明するとこうした感じになります。
お金がカミサマ。そして夢というゴールへ自動運動しよう。

現代のことはこれぐらいにします。
次回…があるかは分かりませんが、書けたら次は老化貨幣について暗号通貨の要素を織り交ぜながら考察を続けたいと思います。

 


 

参考文献および『構造と力』についての補足

 

ちなみに『構造と力』についてですが、冒頭の繰り返しになりますが、これはその昔この本をきっかけに(だったかな)ニューアカブームというのを巻き起こしたすごい本で、当時は哲学書がベストセラーになるなどの面白い時代だったそうです。時代性もあってか用語が難しかったりもして、活字に抵抗がある方は読み通すのが大変だったりもすると思いますが面白いので機会があったら読んでみてください。

 

また構造主義の入門書は、以下の本がおすすめです。

内田樹『寝ながら学べる構造主義』、文春新書、2002
橋爪大三郎『はじめての構造主義』、講談社現代新書、1988

 

リンクと関連書

 

 

内田樹『寝ながら学べる構造主義』、文春新書、2002

 

 

 

 

 

注釈

  1. 自称ばっかりなところの理由は、ご想像におまかせします。
  2. 『エンデの遺言「根源からお金を問うこと」』、No.808
  3. 浅田彰 著
  4. (ピュシスに類する、ルソーの提言したような純粋な自然のサイクルからの逸脱)
  5. 浅田彰『構造と力』(勁草書房、1983)p165
  6. 浅田彰『構造と力』(勁草書房、1983)p166
  7. 同上、p168
  8. ハイデガーを参照
  9. 参考:井筒俊彦『イスラーム文化―その根底にあるもの―』(岩波文庫、1991)
  10. 浅田彰『構造と力』(勁草書房、1983)p27
  11. 同上、p171
  12. 同上、p180
  13. 浅田彰『構造と力』(勁草書房、1983)p195
  14. ただこのモデルはこちらのサイトによるとあまり適当な例え図ではないそうです。それにしてもこの廃墟面白いなあ、と思っていたらピケティの『21世紀の資本』とかフィリップ・K・ディックの本とかどれもこれも面白そうな本を翻訳しまくってらっしゃる山形浩生という方のホームページでした。素敵なサイトです。(嘘じゃないですよ。)あとでじっくり読みたいです。
  15. 同上、p216
  16. (上記の指摘によるとクラインの壺は底がないが今は置いておくとして)
  17. 同上、p179