「お金とは何か?」:構造主義で論じる現代貨幣論 序説(9660文字)

 

仮想通貨が盛り上がっていますね。
オルトコインは盛り下がっていますね。

こんにちは、@Rhimeです。

 

さて突然ですが、みなさん構造主義というのはご存知ですか?

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例えていうならば、わたしはその方にはまだ詳しくないのですが、「陰謀論」というのがあると思います。
ロスチャイルド云々、イルミナティ云々というような逸話ですが、構造主義もカジュアルに言ってしまえばそれらに近い、なかなか穿(うが)った考え方として、今なお目に見えない形、というよりもはや溶け込んでしまっていて、近すぎて見えないみたいというようにして社会に存続している哲学・現代思想状の一翼であります。1

とはいえ、様々な批判があるにせよ思想史的にみて正統な知見であることは確かなので、混同するのは注意をお願いします。
というかイルミナティとかキャッチャーなものと抱き合わせで紹介しないと絶対興味を持ってもらえない枯れた思想だと思う。
面白いんだけどなあ…。


 

そんな構造主義ですが、はたやその昔、1980年代頃、バブル期真っ只中といった具合の時代に、哲学書がベストセラーになる″ニューアカブーム″というものがありました。
それまでの″構造主義″とカテゴライズされる思想を打ち立てた西洋の知の巨人達--レヴィ・ストロース・ソシュール、ジャック・デリダ、ジャック・ラカン、ロラン・バルト、ミッシェル・フーコー、フェリックス・ガタリ、ジル・ドゥルーズ--などの知恵の総まとめというような浅田彰の著した書籍『構造と力』などは、それはもう売れに売れて、自称インテリ、自称哲学者、自称社会派、自称知識人などは、クラフト紙に包んだフランスパンの代わりに『構造と力』を小脇に抱えて大学のキャンパスを闊歩していたといいます。2

その少し前では、フランスで五月革命などが起き、日本にもそれが波及して学生運動として大学が非常に混沌とした具合になったのはバブリー経験者の方はご存知のはず。

 

が、今ではテレビなどでは構造主義など全く聞かなくなりました。
わたしは、テレビで「構造主義」という言葉を聞いたのは人生で一度もない…訳ではない気がしますが(「100分で名著」でレヴィ・ストロースの『野生の思考』やってたので)、「今これが熱い!構造主義特集」みたいなのは観たことない。

それもそのはずで、構造主義はその後いろいろあってポスト構造主義とか脱構築とかに進んでいき、例えればモダンがポストモダンになって建築家がカラフルなやべーやつをそこら中にぶち上げまくったみたいに混沌としているので、言ってしまえば歴史の中に忘れさられようとしているわけですね。

ちなみに現代思想の最先端は、わたしの知るところによるとダナ・ハラウェイのサイボーギニズムなどに類するものだそうです。

 

 

今は資本主義じゃんというのに対しては、構造主義はやや外側というか、外野でぶーぶー言っている人たちの思想なので、社会が共産主義を目指すような形で、社会が構造主義に向くという性質のものではないと、わたしは認識しております。
しかしイルミナティがリップルを覇者に仕立て上げようとしているという寝耳に水の視点と同じく、構造主義もなんらかの貨幣への新しい視点を寄与することでしょう。

ともかく構造主義について書いたので、というか『構造と力』について書いたので以下に載せておきます。

以下、自称インテリが萌えるようなムズカシイ用語が時々出てきますが、頑張って読むとなにもありませんよ。
XCPとかwavesのトークンだったらいくらでもあげますよ。
BTCはあげませんよ。

 

というわけで構造主義、行ってみましょう。

 

​お金とは、なにか。

お金とはなんなのかという問いが、ここ数年の間で今世界各地で繰り広げられてきたことだと思います。
それはもちろんブロックチェーン、および仮想通貨の登場という衝撃によってもたらされたものです。
そのような議論をするにいたった彼らはまず一度は、以下のようなことを思うのではないでしょうか。つまり、

 

  • お金とはなんなのだろうか。
  • 将来的に資産の保管場所としてビットコインなどの仮想通貨に変わっていくのだろうか。
  • だとしたら今ある現金(フィアット(不換紙幣))は死ぬのだろうか。

 

などに類する問いです。

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そしてこれらの問いは、事あるごとに周回し、最初の問い”お金とはなにか”に立ち戻ってくることでしょう。
このお金・貨幣についての考察は、仮想通貨においての考察という領域にとってもっとも基本的なことだと思います。
その”お金自体への疑問”を抱くという経験は、仮想通貨を知った人たちの多くが供述しその体験を共有しています。
ある人はお金の歴史についての本を読み、ある人は人間史にその答えを求めたりしたことでしょう。

 

多くの人は、お金がたくさんあれば嬉しいと思っています。
資本主義社会において、それは同然の感情だと言えるでしょう。

しかし、そうしたお金についての本のなかには、以下のような思想も中には存在します。

つまり″蓄財する″という行為がしかしそもそもの話として悪であるという思想です。
そうした思想は、主にドイツ圏の知識人の見解に見つけることができます。

 

では、お金を貯めるということはいけないことなのでしょうか。
そのような指摘をなされる”お金”とはなんなのでしょうか。
このような錯綜した意見のある”貨幣”の行く末はどうなるんでしょうか。

 

 

ここでは、「お金とはなにか」として、以下のような順で考察したいと思います。

注※→:すみません①で力尽きました。現段階ではひとまず①を投稿したいと思います。
②、③はいつかにまたの機会にしたいと思います。

 

  1. 老化貨幣についての考察の準備としての構造主義的見地から見た現行貨幣の復習
  2. 準備を踏まえた上での、自然秩序的老化貨幣モデルと地域通貨についての考察
  3. そしてフィアットは死ぬか死なないかの検証

 

これらを順に考えていき、ひいては「お金について考える」という、哲学の誘いの役割になれればと思っています。

 

はじめに:将来からの価値の輸入

 

エンデの代表作『モモ』ではリクガメのカシオペイアが活躍します。

 

ドイツの児童文学作家であるエンデ―――ミヒャエル・エンデ―――による子ども向けのやさしい物語のなかには、一方で現代社会とそのお金への鋭い問題提議が含まれているということが知られています。

 

 

 

エンデは”利”を非常に問題視していました。
またエンデの注視していた、シュタイナー、およびゲゼルも同様に、お金への問題意識を有していました。

″蓄財する″という行為が悪であるという思想。
つまり、金(かね)の死蔵という問題。

その問題は、ひいては、エンデの指摘していた″利″によるカネの指数関数的増殖・利を使いこなすことのできる数%の人たちへの富の集中、そして資本主義的破壊的”将来からの価値の輸入”と形容される、お金・マネーによる暴食的パンデミックみたいなもの、そしてそれらの行く末の宇宙船地球号の破滅的なことにまで発展することができます。

「われわれは将来を”輸入”して、いまを生きています。そのために環境を消費し、資源を食いつぶしているのです。」3

それら利の弊害への打開策として、ドイツの知識人、シルビオ・ゲゼルやルドルフ・シュタイナーなどの提言による保持しているとその価値が低下していく「老化貨幣(エマージング・マネー)」なるものがあります。
まだ概念を知っただけなので有効性について詳細に論じることはできませんが、老化貨幣というのは、”お金とはなにか”という基本的な問いに対してひとつ検証のしがいがあるのではないでしょうか。

 

構造主義的見地から見た現行貨幣の復習:脱コード社会

 

 

これまでの社会を3つの構造に区分する

 

まず老化貨幣について考える前に、現代社会の構成の成り立ちを構造主義的な見地から振り返ってみたいと思います。

 

構造主義のおさらい

 

その前に構造主義の概観をご存知ない方に簡単に解説をはさみたいと思います。
まず引用によると、

構造主義(こうぞうしゅぎ、仏: structuralisme)とは、狭義には1960年代に登場して発展していった20世紀の現代思想のひとつである。広義には、現代思想から拡張されて、あらゆる現象に対して、その現象に潜在する構造を抽出し、その構造によって現象を理解し、場合によっては制御するための方法論を指す語である。

構造主義という名称から、イデオロギーの一種と誤解されがちであるが、今日では、方法論として普及・定着している。あらゆるイデオロギーを相対化するという点でメタイデオロギーとも言える。数学、言語学、生物学、精神分析学、文化人類学、社会学などの学問分野のみならず、文芸批評でも構造主義が応用されている。

一般的には、研究対象を構成要素に分解して、その要素間の関係を整理統合することでその対象を理解しようとする点に特徴がある。例えば、言語を研究する際、構造主義では特定の言語、例えば日本語だけに注目するのではなく、英語、フランス語など他言語との共通点を探り出していくメタ的なアプローチをとり、さらに、数学、社会学、心理学、人類学など他の対象との構造の共通性、非共通性などを論じる。

https://goo.gl/ivtT5D

とあります。
これは簡単にいうと、

  • 哲学的な、”真理の探求”という、どこかに存在する”モノ”を探すというアプローチをする態度に対して、
  • 構造主義では、その真理とされているものがどのようにして形成されたか”真理というモノ”の系譜はいかなる構造となっているかを探求する態度である

という感じでいいと思います。
いいかえれば、いかにして常識が形成されたか。
見えない”当たり前”がどのように生活に「構造」として存在するか、を探求するアプローチです。

 

社会を構造的に区分する

 

結論からいうと、まずカミサマイエスは、永遠不滅で石ころをパンにしたり、病気を治したりあれやこれやと万能な絶対的な存在でした。
しかしながらニーチェなどの哲学ボーイによって殺されてしまったので今はなりを潜めています。
変わってその座についたのが、今みんなのお財布に意気揚々と入ってるお金だというんですね。
考えてみると、永遠不滅(かどうかはさておき、口座に眠らせておくだけならカビたりしない)で石ころをパンにしたり、病気を治したりあれやこれやと万能ですからね。

これを踏まえ、人間史というものを構造主義とか現代思想的に解釈すると、大きく3つの流れ、つまり

  1. コード化
  2. 超コード化
  3. 脱コード化

に区分され、その中の「超コード化」もしくは「超コード化社会」が、カミサマ万歳・教会万歳の時のことをさしたりするとされてます。
この中のコードというのは、かんたんにいって”社会の仕組み”と読んで差し支えないと思います。

では、これらコードがなぜ存在するのかという点に疑問をもってみたいと思います。
これは簡単にいってしまうと、“方向付けのデザインの為”だといえます。
これは『構造と力』4に依拠しており、以降も同書を多く引用しているのですが、つまり

有機体の生の世界とのズレ5を孕んでしまった本能は、肥大した脳のリゾーム的な迷路の中でから回りし、情報的過剰―――方向=意味(サンス)の過剰を作り出す。これは極めて危険な状態である。(中略)その上で、今度は象徴的(サンボリック)次元において、言語的メモリーを刻みつけることが急務となるのである。「いかにして人間獣に記憶が植えつけられるか。いかにしてこの半ば鈍重な、半ば愚鈍な刹那的悟性に、この健忘の化身にいつまでも消え失せないような印象を刻みつけれるか。」ニーチェはこの問いに簡潔に答えている。烙きつけること、絶え間なく苦痛を与えることによって。これである。(中略)文化とは何よりもまずこのような垂直のちからの運動なのだ。6

引用が長くなってしまいました。
次が重要です。

さて、文化が多少とも安定した構造として存在するためには、この垂直な力が社会の全表面に広がることを可能にする何らかのメカニズムが必要である。
このメカニズムがいかなる形態をとるかによって、いくつかの文化を区別することができるだろう。

としています。
前半の長くて難しい文章は、「哲学者が社会を観察すると、こんなふうに見えてるんだな」ぐらいでいいです。

 

コード・超コード・脱コード

 

前掲したコードの区分は、説明を加えると以下のようになります。

  • コード化:原始共同体
  • 超コード化:古代専制国家
  • 脱コード化:近代資本制

真ん中がキリスト的な社会と書きましたが、それぞれの区分は以下のようになっています。

まずコード化された社会、これはつまり「一方的な贈与と見えるものを円環の一契機としてとらえ返すことによって、拡大された相互性=互報性による解釈が可能になったこと、それを承(う)けたレヴィ=ストロースが贈与の円環を一般交換として定式化」7したような、原始的な構造社会をさします。
いってみれば槍を持って火を囲んで踊っていたりしていた時代。
ヤマタノオロチとか神武天皇とかより前でしょうか。
たぶんジャレド・ダイアモンドとか『サピエンス全史』のユヴァル・ノア・ハラリとかが見つめている時代だと思います。

 

次、超コード化社会は、さきほども書いている通り”カミサマ的”な社会です。
これはイエスだけというのではありません。
王様的な存在も含まれます。古代専制国家というのがそのあたりを説明していますね。
いわば、ひとりの王が臣下たちの上に君臨するという、ピラミッド型の構図です。
「人間を部品とするこのピラミッドをマンフォードはメガマシーンと呼んだが、天に向かって聳え立つその姿が大地に張り付いた原始共同体とは異なる新たな段階を示していることは、誰の目にもあきらか」8ですね。
イスラム教でも―――スンニー派とシーア派がいますが―――シーア派の王であり絶対者的な”イマーム”という存在はご存知ですか?
このイマームは、物質的,現存在9的な存在――つまり人――ですが、同時に神的な絶対者としてかつて存在していて、ある日そのイマームを次ぐ子どもが殺されたか神隠しにあったかで消えてしまった何百年か何千年か前のその日から、イマームは”お隠れ”していて今(2017)も、そのままお隠れになっているそうですよ。10

 

脱コード:現代

 

そして第三段階目が脱コード化社会
これは近代資本制として、すべてを、就中(なかんずく)、脱コード化されてマルクスのいう二重の自由を身に帯びるにいたった労働力の流れを、商品として運動にひきずりこむことによって成立する社会なのである、と説明されます。
貨幣が”急進的平等主義者(レヴェラー)”となって、すべてを量的な大小関係に還元し、自身はありとあらゆるものに化身して世界を自らの運動に巻き込んでいくという、情報的過剰―――方向=意味(サンス)の解決方法が採用された社会ということですね。

このサンスの解消というのは、コード化社会ではお祭りがそれでした。
わっしょいわっしょいというあれです。それによってカオスエネルギー=過剰なサンスの発散がされていたといいます。

超コード化社会であるカミサマ時代では、サンスは上方に君臨するそのカミサマに注がれていました。
信仰深く生活していれば救済されるとしてです。

そして近代資本制社会では、カミサマ万歳!とやっていたエネルギーをどこかしらに向けなくちゃいけないというので、未来あたりにすればいいんじゃない?という世界です。

ここで疑問が出るかもしれません。
つまり「現代社会においてカミサマとは貨幣――お金のことではなかったのか?」という疑問です。

 

ウロボロス

 

ここでの”お金”について答えると、脱コードされた社会においては資本とは永遠に達することのできないがゆえにそれを追い求めるという不可侵的な終結、――これで終わりだ、がない――対象へ到達しようという倒錯的手段として存在するということがあげられます。
ここでの資本は、貨幣における交換手段・尺度:アカウント単位としての存在ではなく専ら神的貨幣としての存在として認識されます。
それがあれば救済されるという類のものです。

また、この近代資本制においては、貨幣とは、はじめにEXCÈSがあったと書き表せられるような11、自己証明の完全証明は内的な円環に留まっている限り延々に証明しきれない構造に近似する(→自己言及のパラドックスというそうです。難しいですね…今知りました。)構造の無限のミルフィーユ的差延性をもつ幻惑的な一者として存在していたものから置き換わった存在であり、その近づけばどこまでも遠ざかっていくような差延の性質はそのまま引き継がれています。

そこにおいて、脱コード社会とは、超コード化社会においての王に対する無限の負債であったものが主体に内面化され、自己に対する負債と化すという構図が生まれ、主体は自らに負ったこの負債を埋めるべく、際限なしに走り続けねばならない。言ってみればひとりひとりが「小さな植民地」となるのである12、というような構図があるのですね。
ここにおいて、対象への到達のために、あらゆるメディアにおいてその整流装置としての言説――努力すれば夢は叶うなど――が流布されます。

そしてカミサマは汝らを救済されたまうと促しているのですね。

 

これは一見怖い構造のようにも思えるかもしれませんが、一方で、そうしたダイナミズムがなければ各人は好き勝手いろいろなことをしてしまうアナーキーなことになってしまうので、困ることはたしかです。とはいえ問題がないわけではありません。

これは個人的な考えですが、こうした亡霊性・背面性構造に嫌悪感をいだく人のための、開示性・正面性構造があるというのが昨今巷で言われているような”多様性”のひとつなのではないかと思ったりしています。
考えがふわふわですね。精進します。

 

 

さて、そのような資本の健やかな成長のための労働性の投げ込み機能としての整流装置として、家族もその役目を全うしています。
貨幣のダイナミズムに優良な過剰の解消を達成できる粒子を投げ込むために、国家イデオロギー(AIE)は「子どもをエディプス化された「独立」の主体として成形し、一般性・汎用性をもつ知的能力を賦与することを、主な機能とする」13のです。

近代資本制の貨幣は、超越的な位置に休らうことを知らない。静止した退蔵貨幣は資本としては死んでいるのであり、それが生命をもつためには、絶えず再投下され、価値増殖の運動を続けねばならないのである。14という性質をもっている。その説明のためにクラインの壺というのが図で示されます。

 

ただこのモデルはこちらのサイトによるとあまり適当な例え図ではないそうです。
それにしてもこの廃墟面白いなあ、と思っていたらピケティの『21世紀の資本』とかフィリップ・K・ディックの本とかどれもこれも面白そうな本を翻訳しまくってらっしゃる山形浩生という方のホームページでした。
素敵なサイトです。(嘘じゃないですよ。)あとでじっくり読みたいです。(廃墟つながりで補足しておくと一応この本記事は、この前のくそ記事→知っていますか、WEB廃墟。:変化するネットスタンダードの続きだったりします。書いたのが長かったので二つに分けたらこっちが本体になったみたいなだけですけどね。)

さて、それで一応間違いはありつつも、このモデルを使って説明すると、貨幣というものは、つねに運動し続けるダイナミズムを有していて、継続的なSalto mortale(生命がけの飛躍)15により生き続けるマグロ的・軽業師的な動作をするのだということで、底(上記の指摘によるとクラインの壺は底がないが今は置いておくとして)から舞い上がりつつ細いところを通ってまた底へ還ってくるという循環がなされると説明されます。

そこで子どもたちは、「同じ顔をした定型的主体を作り出して流れ――その流れの中で、主体は自らのノッペラボウの顔に、「資本の流れの派生機能」として資本家と「労働の流れの派生機能」として労働者という仮面(ペルソナ)をつけることになる」16と、とこんなことを言われてしまう存在になるのですね。

 

 

座標的に見た貨幣への結論

 

以上を見るように、貨幣はやはり神的ななにかを帯びる存在だというのは、おおよそ当てはまるのではないかと思います。

これらの関係を座標的にみると、その昔Y軸のはるか上のほうにいたカミサマがニーチェその他によって引きずり降ろされ殺されたあと、その空白のままでは人間の過剰=サンスが危険であるというので代替として時間軸上X軸の遠くのほうに位置づけられたわけですね。

 

現代社会を、『構造と力』に依拠して説明するとこうした感じになります。
お金がカミサマ。そして夢というゴールへ自動運動しよう。

 

現代のことはこれぐらいにします。
次回…があるかは分かりませんが、書けたら次は老化貨幣について仮想通貨の要素を織り交ぜながら考察を続けたいと思います。

 


 

『構造と力』についての補足

 

ちなみに『構造と力』についてですが、冒頭の繰り返しになりますが、これはその昔この本をきっかけに(だったかな)ニューアカブームというのを巻き起こしたすごい本なのですが、当時は哲学書がベストセラーになるなどの面白い時代だったそうです。
この本、私は好きなんですけど文中にも掲載したようにいろいろ指摘されがちな本みたいですね。
なんでかというと、あまりに面白い本だからどこかにアラがないかとつい探してみたくなってしまうような本だからじゃないかと個人的は思っています。
時代性もあってか用語が難しかったりもして、活字に抵抗がある方は読み通すのが大変だったりもすると思いますが面白いので機会があったら読んでみてください。

 

21世紀の資本は読めてないんですよね。

その他にも山形浩生氏の関わっている本で面白そうなのをつらつら載せておきます。
どれも面白そうなものばかりです。

 

 

 

 

 

注釈

  1. (いやもしかしたらまだメジャーなのかもしれない。まだ把握しきれていないので。)
  2. 自称ばっかりじゃねーか。
  3. 『エンデの遺言「根源からお金を問うこと」』、No.808
  4. 浅田彰 著
  5. (ピュシスに類する、ルソーの提言したような純粋な自然のサイクルからの逸脱)
  6. 浅田彰『構造と力』(勁草書房、1983)p165
  7. 浅田彰『構造と力』(勁草書房、1983)p166
  8. 同上、p168
  9. ハイデガーを参照
  10. 参考:井筒俊彦『イスラーム文化―その根底にあるもの―』(岩波文庫、1991)
  11. 浅田彰『構造と力』(勁草書房、1983)p27
  12. 同上、p171
  13. 同上、p180
  14. 浅田彰『構造と力』(勁草書房、1983)p195
  15. 同上、p216
  16. 同上、p179

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