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文章を書く意味が分からなくなったので読んだ『新しいメディアの教科書』

 

ものを書く意味がわからなくなった

 

最近ものを書く意味がわからなくなりました。
文章を書くのは好きだし本もすきなのでブログは楽しいのですが、インターネットサービスにおけるnoteや他、なんだろうパっと思いつかないけどそういうテキストを投稿するプラットフォームの形態が広まりつつあり、そうしたものへリソースを割いていくべきなのかそうでないのか、という。

当時の原型はないに等しいですが、そもそもこのブログはブロックチェーンのことを広めるために開設し、海外の情報を和訳したりして投稿していたのですが、ありがたいことに毎日更新されるブロックチェーンと暗号通貨情報メディアがいくつも出てきたため、役割的には終わっている。
なので、ものを書くこと自体について考える必要がでてきたという。

それに加えて、文章は好きなのですが、ブログ的なHow toや最新情報まとめ、デバイスレビューのような瞬間的なものに対して注力することには性格的に向かない。
でもブログである以上そうした記事を書かなければならないのだろうか?書いたほうがいいのか?ということも思うわけで。
でもそれは、ブログを書くためにブログを書いている状態であって、発端が不正確なわけです。
これは広告でも同じで、

『新しいメディアの教科書』 | 位置: 54
広告というものは、クライアントが消費者に伝え、消費者がその広告を見る。そして「ほしい」と思ったら商品やサービスを購入する。そこにはクライアントと消費者、メディアのウィンウィンウィン(三方よし)の関係がある。
ところがアドセンスには、そういう関係はない。「互いの関係」というようなコミュニケーション的なものとは無縁の原理で駆動しており、広告ではない。これは広告類似物だとザッカーマンは指摘している。  アドネットワークでは、消費者はあくまでも数値として扱われ、クライアントが消費者の顔を見ることはない。またウェブメディアにとっても、広告は自動的にネットワーク配信されてくるため、クライアントとの関係も存在しない。すべてはアドテクと呼ばれる数値の制御によって駆動されている。

数字、数字、数字。
数字、数字、数字。

数字がすべてなのか?
いや、おそらくそうではない。

もちろん数字が重要である場面はありますが、一方で数字はさして重要ではない場面も十分に考えられるし現実としてそれは存在する。
「わたしたちは視聴率やクリック率ではない、ひとりの個人だ。」1

いまウェブのUXが向かっている方向は、シンプル&ミニマリズムです。余計なものが何もない画面に、シンプルに記事と写真だけを配置する。
一九九〇年代に流行ったような、画面を三つぐらいに縦分割し、両側にメニューやディスプレイ広告を表示するタイプのゴチャゴチャしたデザインは、好まれなくなっています。
日本のサイトにはいまだそういう種類のものが少なくありませんが、全体としてはそういう方向2です。

そうした上で、Webでものを書く、あるいはものを書く意味自体はどのようなところにあるのだろうかというところを探りたい気持ちになりました。私達はコンテンツの生産の労働者なのか、それとも自己帰属的な一方向性だけではないテクストの表象は可能なのかを問いたい気持ちになりました。

同上 | 位置: 198
だから議論すべきは「ディスプレイ広告をブロックするのは是か非か」ではない。「ネットの広告はディスプレイ広告のままでいいのか? 他にベターな広告モデルはないのか?」ということを議論しなければならない。  そもそも「ディスプレイ広告がなければウェブは成り立たない」という論の建て方が間違っているのだ。

 

スタック情報の再構成:瞬間的で扇情的なものだけが記事ではない

ニューヨーク・タイムズの例。
フロー型の情報と対立的なスタック的情報は、適宜発掘・再構築することで新しい価値を生み出せる。

同上 | 位置: 589
ところがニューヨークタイムズのサイトでは、このレビューを過去記事の中から見つける動線がうまくつくられていないという。逆に言えば、そういう動線をきちんとつくっておけば、過去記事はもっと読まれるはずなのだ。

フリップボードというアプリがある。ネット上のさまざまな記事を雑誌のように横断的に一覧できるアプリなのだが、二〇一四年末に「今年亡くなった著名人」という特集がつくられ、フリップボードのリリース以来最も読まれた記事になった。しかしこの特集のソースは実はニューヨークタイムズだった。ニューヨークタイムズは自社の過去記事をフリップボード向けにうまく再構成し、読まれるコンテンツに変身させたのだ。 

 

Web空間における思索の過程と結果のような長い文章は、昨今のHow toや「いかがでしたでしょうか」的記事の潮流によって無価値化されている。

同上 | 位置: 902
これらはたしかに高品質なコンテンツとして十分な要素だが、必要な要素とは言えない。「難しくなく読みやすく、読者の悩みを解決してくれて次の行動を取りやすい」というのは自己啓発本や実用書にもよくある安易な手法で、「わかりやすいが単純化しすぎ」「読みやすいが内容がない」とイコールであることも少なくない。ディー・エヌ・エーの「キュレーションメディア」騒動でも、そうした定義に当てはまる記事が量産されていた。

 

同上 | 位置: 694
だから好奇心ギャップのようなクリックベイト手法は、麻薬のようなものだ。「気持ちよくなる」「精神が高揚する」という一時的なメリットはあるが、気がつけばやめられなくなっている。

同上 | 位置: 747
新興メディアのクォーツは、有名な「クォーツカーブ」というグラフで長文記事の可能性を以前から指摘している。クォーツカーブはU字の曲線で、ページビューを縦軸、文章量を横軸に置いたグラフだ。日本語で言うと千文字以内ぐらいの短いものは読まれ、それより長いと読まれない。しかしクォーツカーブに沿えば、三千文字を超えるような長い記事はふたたび読まれるようになるとされる。
日本語のブログでも、非常に長いがたくさんのビューを稼いで人気になっている記事を見かけることがある。こうした人気記事の特徴は、「一緒に並んで座っている友人に語りかけるような口調」を持っていることだ。

 

ユーザーとの関係性

 

何回も言うように、数だけ追い求めるのはセンスよくないなとか思ったりしてしまうわけです。
アプリを作る上でダウンロード数とか大事なのは分かります。でもそうでない選択肢もあることを考えてもいいのではないか。

 

先に紹介したジェフ・ジャーヴィスのブログは、メディアがディスプレイ広告に囚われている状況から脱出するためには、旧来のマスメディアモデルから脱し、サービスとして再構築されなければならないのだと説いている。  メディアではなく、サービス。どのような意味だろうか。 ジャーヴィスはこう書いている。

まずユーザー個人や、ユーザーが所属するコミュニティが、どのようなニーズを持っているのかを把握するところからサービスは始まる。
そのためにはビッグデータによってユーザーを監視するのではなく、ユーザーとの「関係」を重視しなければならない。この関係に基づく合意があれば、プライバシーを含めた情報はメディアとユーザーのあいだで不安感なしにやりとりすることが可能になる。

その上で、よりスマートな広告モデルの可能性を考えるべきだ、というのがジャーヴィスの論だ。適切で、可視化されていて、リスペクト(敬愛心)があって、信頼できて、ノイズは少なく、お金や時間やアテンションをムダに消費することもない。そういう広告だ。
それがクルートレイン宣言のメッセージであり、ジェフ・ジャーヴィスの伝えようとしていることだ。
同上 | 位置: 202

 

同上 | 位置: 246
スマホでは、なめらかなUXが重視される。そしてUXがなめらかになっていくと、これまでのメディアにはなかった新しい感覚をもたらす。それは、読者が気にするのは「居心地良く楽しく、興味深く読んだり観たりできる」というUXの気持ちよさであるということ。それが記事か広告かという供給側の論理は副次的なものに落とされてしまうのだ。

 

同上 | 位置: 256
重視されるのは、コンテンツが「どこから流れてくるか」ではなく、「自分に必要なものかどうか」というユーザー側の視点であると言い切って良いだろう。かつてのマスメディア全盛期には、 「週刊○○があるから読もう」「テレビが居間にあるから、電源を入れて○○の番組を観よう」「○○新聞の朝刊が届いたから、出勤前に読もう」  と、チャネルの存在がまず大前提として読者に重視された。そこから視聴・読書体験に動線が引かれていたのである。需要は多かったが供給が絞られていたから、こういう構図が成立したのだ。  しかしインターネット時代には、膨大な情報がさまざまなデバイスやサービスを経由して流れ込んでくる。

 

 

 

作り手の現場を晒す

 

数だけでない、それはどういことかというと、何かのものには必ず作り手がいるわけなのだから、そこにフィーチャーしてもいいじゃないかということです。これはマルクスにおける”物象化”という資本主義のバグのせい※で、ある程度不可避的に発生してしまうものなのですが、認識ができれば対策も講じられる。
(※物象化:資本主義の特性によって人よりもモノの重要性が高まり目的と転換してしまう現象のこと。『資本論』、あるいはその周辺の本で理解できる。)

 

同上 | 位置: 634
コネクションに最適な戦略のひとつとして、記者の「楽屋の裏側」を見せることがあると報告書では指摘している。完成された記事だけを読者に提供するのではなく、その記事がどのように取材され、どのように書かれたのかという楽屋裏を見せることで、読者は記者に親近感を抱き、つながりを感じるようになることが期待できるのだ。

 

このモノ作ることの語りというのは、みんなやるべきことだと個人的には思っています。落合陽一氏とか、昨今のテクノロジーが発達しすぎてもはや魔法化しているということを指摘していますが、資本主義のルールである、ある一部門の専門化と他の領域の門外漢化によって、他のプロジェクトの中身を理解することがすごく困難になってきていると思う。

たとえばアプリなんかは、かなり身近であるけれど、AndroidとiOSでそれぞれにAndroidStudioとXcodeなどでネイティブで開発するし、プログラミング言語もiOSはswiftなどを使うからかなり複雑化してまさに専門化、魔法化、ブラックボックス化が激しい。なので、いかなることが現場で行われているかということを積極的に伝えないかぎりは、すべてのプロダクトは今後ブラックボックスとして社会に存在することになるのではないかと思います。そうなるとブラックボックスなものには近づき難いので、ある程度クリアーで人間が見えるところには親近感が湧くのではなかろうか、と思う。

 

親近感

 

同上 | 位置: 757
ネットでは、多数に向き合うのでもなければ、ひとりの個人と向き合うのでもない。「向き合う」のではなく、横に並んでいるだれかに話しかけるのだ。  加えてネットの文章は、徹底した話し言葉だ。硬派のジャーナリズムの文章は、ネットには馴染まない。

 

同上 | 位置: 779
カッコいい第三者的な情景描写から入るのではなく、やわらかい自分の個人的な体験談からするすると始まるというのがブログ文章の特徴である。要するに、落語の「まくら」のようなものだ。軽い話を導入にして読者を惹きつけつつ、だんだん本論に入っていく。そういう「うまく乗せられていく」感じ、当事者的な感じが、ネットの文章には必要なのだ。

 

たとえばアプリにしてもどこのだれか知らんものをダウンロードしたくは無いわけで、かといって「知っている人は知っている」ぐらいに隠された場所でプライバシー問題が死ぬほど深刻化しているという状況で、そのような抵抗感を払拭する必要がある。相反するこれらを克服するために、個人の秘匿化としてのVRだったりのカウンターカルチャーがあったりするなかで、こうした態度としての実践もあるのではなかろうか、という。

 

同上 | 位置: 830
このような自分ごとの視点の動画が進化していく方向は、テクノロジーの進化にも沿っている。プレイステーションVRやオキュラスリフトなどVR(仮想現実)の製品が一般に販売される時代を迎えて、エンパシーマシーン(感情移入機械)という言葉が登場している。VRは他人の視野を代替して手に入れ、その感覚をごっそり自分のものとして体験できるから、他人が現場で抱いたリアルな感情までもがユーザーに移入されるという意味だ。

 

 

人のいるところにテクストを投げ込め

 

「ホームページ。この言葉はもはや古く聞こえる。」

 

同上 | 位置: 284
バズフィードはパーソナライズではなく、「どのようなコンテンツを読者がみんなと共有したいと考えているか」ということによりフォーカスするのだ、ということをペレッティは語っている。  つまり家族や恋人、友人、同僚といった仲間たちと共有したり、議論したいと思うコンテンツを提供する最適化が必要だという主張なのである。

 

同上 | 位置: 295
こうした傾向はパーソナライズではなく、コミュニティ最適化、英語で言えばコミュニタイズというような言葉で表現されるようになるかもしれない。

 

同上 | 位置: 303
ホームページ。この言葉はもはや古く聞こえる。いま、ニュースはあなたのいる場所にあるのだ。

 

同上 | 位置: 307
かつては記事や動画は、ただ配信するだけで見てもらうことができた。前にも書いたように、コンテンツの供給がとても少ない需給バランスが成り立っていたからだ。しかしインターネット時代にはこのバランスは傾いて、供給が激増した。ただサイトで公開するだけで何もしなければ、見てもらえる機会はほとんどない。だからコンテンツ企業には、次の二つの戦略が求められるようになる。 「読者の求めるものを提供すること」 「読者のいる場所に行くこと」

そして解体される水平モデルとコンテクストの分散化

 

 

破壊的イノベーションの特徴について次のように記されている( 16)。
・業界外のアウトサイダーによって導入される。
・既存のサービスや製品よりも安価。
・既存のサービスが行き届いていない分野や、まったく新しい市場をターゲットにしている。
・既存のサービスや製品よりも最初は質が低い。
・実用化された新技術によって動いている。

 

同上 | 位置: 363
そして新興メディアがついにやってきた。彼らは、ポータルや検索エンジンに牛耳られるような水平分離モデルを解体して、あらたな垂直統合モデルを組み立てようとしている。そこで気になるのは、ポータルと検索エンジンの後にやってきたSNS時代に、巨大SNSとどう付き合うのかということだ。

 

同上 | 位置: 452
また、SNSそれぞれの特徴の違いも明らかになりつつある。先ほど、ツイッターは外部のSNSに広がりやすく、フェイスブックは内部だけでシェアされやすいという話を書いたが、違いはこれだけではない。  バズフィードの動画の視聴データを分析したところ、フェイスブックでは人々の個性や感情について表現した動画が見られやすく、ユーチューブでは事実に基づいたものや、お笑い系の動画が見られやすいということが判明したという。  このようなSNSなどのプラットフォームの特性をきちんと把握し、それに合わせてコンテンツを配信していくというのがとても重要だ。テック系メディア「リコード」のインタビューで、ジョナ・ペレッティはこれを「ポートフォリオを組むことだ」と的確な言葉で表現している( 14)。

同上 | 位置: 462
リコードのインタビューによると、バズフィードでは決して「拡散させましょう」というような単純な提案はしないという。  広告主のコンセプトを吸い上げ、「コンセプトに基づいて、拡散のベストのタイミングを測っていきましょう」と説明し、その上でどのプラットフォームにどの形式のコンテンツをどのタイミングで配信するのかというポートフォリオを組む。

 

コンテンツ発送

 

どのようにコンテンツを届けるかについては以下のような3つを熟慮することが重要だとしている。

①ディスカバリー(どのようにコンテンツを構成し、配信するか)
②プロモーション(どのようにしてコンテンツに注目してもらうか)  
③コネクション(読者のロイヤリティを高めるために、どのような双方向のコミュニケーションを行うか)

 

同上 | 位置: 585
良質なコンテンツを持っているというだけではダメで、読者にリーチする方法を確立しない限り、宝の持ち腐れになってしまうという典型的なケースと言える。

 

新しいメディアの三種の神器

 

同上 | 位置: 850
「良質なコンテンツ」「配信テクノロジー」「ネイティブ広告」は、メディアが進化していくうえで同時に揃わなければならない三つの重要な要素だ。新しいメディアの「三種の神器」と言えるだろう。  良質なコンテンツ × 配信テクノロジー × ネイティブ広告

 

部門分けの無意味さ

 

そして、こうしたアプローチを取っていくなかで、なにかの役職や仕事に固執する必要性に疑問を呈したくなってくる。

 

 

同上 | 位置: 621
ところが、ニューヨークタイムズではツイッターのアカウントは編集局が運用し、フェイスブックのアカウントはビジネス部門が運用していたという。これでは機動的な運用、即応体制が採れるわけがない。  そもそも「記事を読者に届ける」というのが目的であって、それを社内の部署に分ける理由は本来的にはないはずだ。  これはメディアに限らず、伝統的な企業の問題でもある。たとえば宣伝部や広報部が部署として分離されていることが多い。宣伝部は広告代理店経由で広告をテレビや新聞に出し、広報部は新聞記者や雑誌編集部に自社の情報を送る。チャネル別に部署が分かれているのだ。  しかし消費者とつながるのが最終目的であれば、もはやチャネル別に分ける必要はない。広告、広報、マーケティング、販促などを横断的に活用し、全体最適化された戦略を立てるべきなのだ。

 

同上 | 位置: 1,012
日本では新聞やテレビが「客観的中立報道」「不偏不党」を掲げながら、実はイデオロギー的に偏っていた問題がある。しかし新聞・テレビはプラットフォームではない。コンテンツを配信するメディア企業であり、垂直統合が解けてきた状況では、不偏不党であることをうたう必要さえなくなっている。だから新聞もテレビも不偏不党など提唱せず、自分たちの思想や哲学をきちんと前面に出して論陣を張ればいいと私は考えている。

 

 

そして思想はエンドツーエンドへ

 

同上 | 位置: 1,027
インターネットの本質として、「エンド・ツー・エンド(端から端へ)」という用語がある。通信する経路は単に転送を担うだけで、通信のコントロールは末端のシステムが行うという意味だ。情報が流れる基盤は、コントロールは行わない。プラットフォームは基盤としてなるべく介入せず、情報のやりとりの真偽や品質の保証などはユーザー同士に任せようという考え方が、ネット文化の根底にある。

 

同上 | 位置: 1,076
一九九五年からの過去二十年のインターネットは、水平分離に向かって進んできた。今後の二十年はコンテンツを制作するメディア企業による新しい垂直統合も広がっていき、水平化と垂直化が同時に進む方向へとむかうだろう。メディアは垂直に文化を統合していき、プラットフォームは水平に基盤を提供していく。その二つの方向は縦横に交わりながら、二十世紀にはなかったまったく新しいメディア空間を創造していくのだ。

 

ものを書く意味

新しいメディアの教科書

 

果たしてこれで意味が分かったかといえば、なにも分からなかったりする。むしろより分からなくなった。しかし依然として純文学は好きだし、テキストというよりもコンテクスト(文脈)は好きだったりする。

又吉直樹の『火花』が好きで、このようなことを言うと大衆迎合なのかとも揶揄されるかもしれないが、この『火花』自体がものを書く意味のような気もする。コンビ名の「スパークス」と、名前を忘れてしまったけどヤバイほうの相方のほうの破壊っぷり。個人的には『火花』は、今思うと名前のとおりに瞬間的な発火と漸進的な破壊の話だったりする訳で、これがものを書く意味のような気もする。

だから綺麗な文を書きたいけど、それと同時に不可抗力で見てしまった良い子ちゃんな文を見て苛つきつつ、3分で分かるように書かれた汎用建築物のような文に抵抗したいのだ。

 

 

 

注釈

  1. 同上 | 位置: 222
  2. 同上 | 位置: 185

この記事を書いた人

伊澄 理夢

伊澄 理夢 / イズミ リム / IZUMI Rhime
2017年3月からブロックチェーンに興味を持って以来、デザインの面から、"NEM"を通じて技術の普及に貢献できる道を探しています。
児童文学と純文学、哲学と現代思想、仏教と禅、黒い服と民族衣装が好きなINTROVERT(内向型)です。
大学ではデザインを学ぶ。